職場巡視をしていると、通路の段差に黄色い注意テープが貼ってある場所をよく見かける。「足元注意」という張り紙もある。 それ自体は悪いことではない。ただ、あの張り紙を貼った後に、転倒事故が起きているケースがある。 なぜだろう。 注意喚起をしたのに、なぜ事故が起きるのか。「本人が注意を怠ったから」と本人の問題にしてしまうと次の事故を防げない。


転倒は「危険と感じない場所」で起きる

厚生労働省「令和6年の労働災害発生状況」によれば、60歳以上の死傷者に占める事故の種別は転倒が最も多い。次いで墜落・転落、腰痛などが続く。 ここで少し考えてみたい。転倒事故が多い場所はどこか。階段や、明らかに危険な場所だろうか。 職場での観察では、そうとは言い切れない。転倒はむしろ、「いつも通る場所」「ずっと問題なかった場所」で起きやすい。1cmの段差でも転倒する。 なぜか。慣れた場所だからこそ、注意が落ちる。そして、身体機能が少しずつ変化しているから、かつては問題なかった段差が、今は問題になっている——という構造だ。


加齢による変化は、個人差が大きい

「高年齢者の労働災害防止のための指針」(令和8年2月10日告示)は、加齢に伴う特性として以下を挙げている。 - 筋力・バランス能力・敏捷性の低下 - 全身持久力の低下 - 視力・聴力などの感覚機能の低下(特に暗所での対応力) - 認知機能の低下 これを読んで「60歳を超えたら全員こうなる」と思わないでほしい。 個人差は非常に大きい。同じ65歳でも、体力的には50代と変わらない人もいれば、70代相当の変化が見られる人もいる。仕事の種類・生活習慣・持病の有無など、変数は多い。 年齢の重ね方は人それぞれということだ。 「60歳以上は全員重作業禁止」のような一律対応は、必要のない制限をかけることにもなりかねない。大切なのは、一律に判断するのではなく、「この人の今の状態」を把握することだ。

——医師としての素直な独白

正直に言えば、自分自身が転倒する場面は、まだ想像できない。 でも、統計はそう言っている。年齢を重ねれば、誰でもそのリスクが高まる。今の自分では想像しにくいからこそ、データを見ておく意味がある。 「自分は大丈夫」——その感覚自体が、リスクの一部かもしれない。


体力チェックは「落とすための試験」ではない

指針が体力チェックを求めているのは、「体力に合った作業に就かせるため」と「本人が自分の身体機能の変化に気づくため」の二つだ。 ここが誤解されやすい。 「体力チェックで基準に満たなければ業務変更」という運用をすると、労働者が「試験」として身構える。結果的に、チェックが機能しなくなる。 指針は明示している。体力チェックの評価基準は「合理的な水準」にとどめ、基準に満たない労働者に対しては「その人の体力でも安全に作業できるよう職場環境の改善に取り組む」こと——つまり、人を変えるのではなく、設計を変える方向だ。 具体的な体力チェックの方法として指針が例示しているもの: - フレイルチェック(加齢による心身の衰えを自己確認する質問紙) - 転倒リスクセルフチェック - 厚生労働省の「転倒等のリスクを確認する身体機能セルフチェック」(オンライン) これらは費用がほぼかからない。「難しそう」と感じる前に、一度試してみてほしい。


「結果をどう扱うか」を先に決める

体力チェックを導入する前に、もう一つ整理が必要なことがある。 「この情報を、会社はどう使うのか」という問いだ。 体力チェックの結果は個人の健康情報にあたる。「労働者の心身の状態に関する情報の適正な取扱いのために事業者が講ずべき措置に関する指針」(平成30年9月7日 公示第1号)に基づき、取り扱いのルールを事前に決める必要がある。 担当者からよく聞くのが「チェックをしたいが、情報の扱いが不安で踏み出せない」という声だ。まず「評価に使わない」「人事情報とは切り離す」「集団データとして環境改善に使う」というルールを明文化してから始めると、導入のハードルは下がる。


何から始めやすいか

直近1年の転倒・ヒヤリハット事例を年齢別に集計する(費用ゼロ)。次に、通路・作業場所の段差・防滑・照度を目視で確認する。「今すぐお金をかけずに気づける問題」は必ずある。 この先には、業務内容に応じた体力評価基準を安全衛生委員会で審議・設定し、定期的な体力チェックを実施する段階がある。個別の結果に基づいて職場環境改善と作業マッチングを連動させ、産業医や担当の保健師が結果のフィードバックを担う仕組みを整えることで、より体制的なアプローチも可能だ。


次回予告——転倒より「見えにくい」リスクがある

転倒は外傷として現れる。骨折すれば、問題は「見える」。 一方、脳・心臓疾患はそうではない。高血圧があっても自覚症状がない。糖尿病が進行していても、日常生活に支障を感じない。そのまま深夜の運転業務に就いている。 「なぜその状態が放置されているのか」——次回は、その構造を掘り下げる。


参照元

- 高年齢者の労働災害防止のための指針(令和8年2月10日 高年齢者の労働災害防止のための指針公示第1号)第2・3、第2・2⑲ - 厚生労働省「令和6年の労働災害発生状況」https://www.mhlw.go.jp/stf/newpage_58198.html - 労働者の心身の状態に関する情報の適正な取扱いのために事業者が講ずべき措置に関する指針(平成30年9月7日 公示第1号) - 独立行政法人労働者健康安全機構「転倒等のリスクを確認する身体機能セルフチェック」