先日、自分の健康診断の結果が返ってきた。血圧が147/94と少し高い。 医師として、この数値が何を意味するかは分かっている。だが、自覚症状はない。「まあ、大丈夫だろう」——正直、そう思った。 これが、まさに多くの職場で起きていることだ。 ある企業では、社員の健診結果に「要治療」の判定が出ている。でも本人は「具合が悪くないから大丈夫」と言っている。受診はしていない。深夜の運転業務についている。 この状況を「本人の問題」と見るか、「構造の問題」と見るかで、打ち手が変わってくる。 なぜ、健診結果で【要治療】の情報が就業がそもそも安全なのか? の判断に結びつかないのか。そこを一緒に考えてみたい。


加齢と脳・心臓疾患リスク——数字の話

「高年齢者の労働災害防止のための指針」(令和8年2月10日告示)には、「脳・心臓疾患が起こる確率は加齢にしたがって徐々に増加するとされており、高年齢者については基礎疾患の羆患状況を踏まえ、労働時間の短縮や深夜業の回数の減少、作業の転換等の措置を講じること」と記されている。 加齢とともに動脈硬化(動脈が硬くなる老化現象)は進行する。高血圧・糖尿病・脂質異常症といった基礎疾患は、脳梗塞・心筋梗塞の発症リスクを高める。これらは適切な治療でコントロール可能だ。 ただ、ここで強調したいのは「高年齢者だから危険」という結論ではない。60代でも70代でも、疾患がコントロールされていれば多くの業務を続けられる。問題は、リスクが把握されないまま、対応が後手に回るケースだ。


どういう業務でリスクが高まるか

脳・心臓疾患の発症リスクは、特定の業務環境で高まることが知られている。 1.深夜業・夜間勤務:睡眠の乱れによる血圧変動、夜間の血圧上昇は脳心臓疾患リスクと関連する。血圧がコントロールされていない状態での夜間運転は、リスクをさらに引き上げる。 2.低温環境での作業:冬の屋外作業を想像して欲しい。寒冷刺激は特に手足の血管を収縮させ、血圧を急上昇させる。さないよファに冷蔵・冷凍倉庫での作業では、気温変化が血圧に直接影響する。 3.長時間労働:長時間働いていると1日の中でも血圧は上昇する。また、疲労が蓄積していくと血圧は上昇する。 過重労働・脳心臓疾患の業務起因性判断基準(令和3年9月14日 基発0914第1号)は、発症前1〜6か月の時間外労働量と発症リスクの関係を整理している。 運転中に心筋梗塞を発症した事案が報道されている。「突然」のように見えるが、発症前から健診で異常値が出ていたけど、介入していないケースは少なくない。「情報はあった。でも誰もそれを就業判断につなげていなかった」——この構造が、問題の核心だ。


なぜ健康情報が就業判断につながらないのか

法定の定期健康診断は、全事業場に実施義務がある。健診結果に基づく事後措置は、労働安全衛生法第66条の5に定められた事業者の法的義務だ(努力義務ではない)。医師の意見聴取を行い、必要に応じて就業場所の変更・作業転換・労働時間の短縮等の措置を講じなければならない。 にもかかわらず、情報が就業判断につながらない理由は、実際の現場からの観察ではおおむね三つに絞られる。 ① 橋渡しをする人がいない:産業医が選任されている事業場では、健診結果を産業医が確認し、就業上の措置に関する意見を経営者・人事に提供できる。しかし50人未満の事業場には産業医の選任義務がない。橋渡し役が構造上存在しない。 ② 「聞いてはいけない」という誤解:「治療状況を尋ねるのはプライバシーの侵害ではないか」という管理職からよく聞く意見がある。ただ、業務上必要な範囲での把握は適切な方法と手続きで行える。「聞いてはいけない」のではなく、「適切な方法で聞く」が正確な整理だ(「労働者の心身の状態に関する情報の適正な取扱いのために事業者が講ずべき措置に関する指針」平成30年9月7日 公示第1号)。 ③ 受診勧奨をしても本人が病院へいかない:これは確かに難しい。強制はできない。ただ、受診勧奨をした記録を残すことは、後から安全配慮義務の観点で重要になる。「勧めたが本人が断った」という事実の記録は、やらなかったこととは別物だ。


産業医がいない場合の選択肢

50人未満の事業場では、地域産業保健センター(労働者健康安全機構:JOHAS)が無料で産業医による健診後の就業判断サポートを提供している。「産業医がいないから対応できない」という状況は、回避できる。 「何かあってから相談する」ではなく、「定期健診の結果が出たら相談する」というルーティンを先に作っておくと、個別の緊急対応に追われることが減る。


治療と就業の両立支援

慢性疾患を抱えながら就労を続ける高年齢者は多い。指針も「治療と就業の両立支援指針」(令和8年 厚生労働省告示第28号)に基づく対応を求めている。 基本的な流れは、主治医が就業上の配慮事項について意見書を作成し、担当の保健師が医療機関と事業者の橋渡しをし、事業者が医師の意見を踏まえて就業上の措置を決定する——という三者連携だ。 ここで重要なのは、「事業者が一方的に決める」のではなく、「本人と話し合って決める」という手順だ。就業上の措置は、本人の理解と同意なしには機能しない。


何が今からできるか?

「直近の健診で、血圧・血糖の要治療判定が出た社員のうち、治療を受けていない人が何人いるか」を把握する。把握した上で、産業医がいない場合は地域産業保健センターに相談する(無料)。「現状を知る」ことが、設計の起点になる。 その後、体制を整える段階では、産業医が健診結果を精査し、脳・心臓疾患リスクが高い高年齢労働者については就業上の措置を書面で実施する。治療状況の定期確認を、健診後フォローアップの仕組みとして設計する。両立支援指針に基づき、主治医との情報連携の体制を整備することが、継続的な対応につながる。


次回予告——「伝えた」は「伝わった」と同じか

健診結果を就業判断につなげる仕組みも、設計の問題だ。安全衛生教育も、同じ構造を持っている。 「研修をした」「説明した」——その事実だけでは、実質的な安全は確保できないことがある。なぜ教育が機能しないのか、そしてどう設計すれば機能するのか。次回、最終回で考えたい。


参照元

- 高年齢者の労働災害防止のための指針(令和8年2月10日 高年齢者の労働災害防止のための指針公示第1号)第2・4⑱⑲ - 治療と就業の両立支援指針(令和8年 厚生労働省告示第28号) - 過重労働による健康障害防止のための総合対策(令和3年9月14日 基発0914第1号) - 健康診断結果に基づき事業者が講ずべき措置に関する指針(平成8年10月1日 公示第1号) - 労働安全衛生法 第66条の5(健康診断の結果についての医師等からの意見聴取) - 労働者の心身の状態に関する情報の適正な取扱いのために事業者が講ずべき措置に関する指針(平成30年9月7日 公示第1号) - 独立行政法人労働者健康安全機構(JOHAS)地域産業保健センター